実家なう 眩しいライトバック

久しぶりに日記を書こうと思う。なぜなら実家にいるから。


なにを書いたらいいかわからないとか、書きたくない、みたいな感情もわかるようになって嬉しい。

ただ、思うように書いていただけだから。

自分が今から書くことが、スマートフォンの白いバックライトに許されるのかわからない感覚、言葉にする価値があるのかわからない感覚、書く必要はないと考える感覚、面倒くさいと考える感覚。

言葉にしたいという欲望、なにかをみたいという欲望、世界と自分を知りたいと、いう欲望。

それらのせめぎあいなのだ。

書くことが面白いか。なにより自分で自分に飽きないか、自分で面白いと思えるか。面白く書けるか。

愛したいという欲望、自分を、世間を、そして携帯電話の白いバックライトを。

今を好きだと思える時、それなりに幸せなんだろう。

 

 数日前から耳の奥と喉は痛いままだし、さっき化粧を落としててふと鏡を見たら顔を無様に鼻から頬にかけて血が伝っていてああこれから鼻血がはじまるのかと思ったら鼻から血の塊がどろりとでてきた。鼻血には違いないが。

 そしてそのあと、とうとう血を吐いた。

 それから今に至るまでまた数分を経過したので、今となっては笑えるが、ああそろそろ死ぬのかなと思った。そして、それなりに過去の不幸が見えてる今、逆にそれなりに幸せだし、誰かのおかげで世間や世界に対する恨みも薄れていったし、でも十代の頃の野心みたいなものはもうなかなか浮上してくるまでにないし、時期としては丁度いいのかもしれない。後者は、芯の強さだとか、生きる力だとか、人間讃歌だとか、世界に立ち向かうだとか、幸福とは生の肯定だとか、そんなことを標榜している人間としては褒められたことではないし、私はおそらく十代の思春期の衝動をそのまま大学生としての勉強につなげ、挑み、実社会に反映しつつあるような男の子も知っている。その男の子はしかし最近年齢相応にも特にかっこよくなって色気をましていたからきっと大人になるうち誰もがその美しさに気づくだろう。彼はきっと学び続けるであろうから。

 私も18歳の頃年齢相応によくもてた。女子校をでたあと、突発的に。花の乙女は人間の半分の通過点である。それにしても、私は浪人しすぎた。大学生活を心から肯定する気にいまだになれない私は、多分、今でも。

 鼻汁に混ざったような血がぐるぐると固まって、排水口の詰まり止めに溜まった黒い髪の毛の上に残り、白く濁った湯水のなかを回っている。それを見ながら、顔をばしゃばしゃとやって、ああ、お湯の中では血は固まってしまうんだっけ、と考えていた。洗濯の時の知識。ひとりぐらしで得たもの。

 血はたんぱく質だから、温められると固まる。クレンジングのあとピンクの薔薇の石鹸の泡を洗いながすと、最後に咳き込んで一旦水の落ちきった白い流しに血の混じった物体がのっかった。ところどころ黄味がかっていた。鼻水なのか痰なのかは分からないし、どちらも私の体液であって、どちらも清潔でも綺麗なものではない。それでもあの人は私の鼻水を舐めるのである。

 外は明るくなっていく。

 

 今週は39歳の金持ちの成功してる男に「今まで損してきた感じだね」と言われぐらぐらなったかと思えばそのうち褒められまくってつきあいたいと迫られたり、写真部の呑み会で酒を飲みながらマルボロを吸いまくったり、次の日喉をいためていることに気づいたり、久しぶりに頭の中で八十八ヶ所巡礼の仏滅トリシュナーを回してみたり、水着の女の子が中年にお酒を出して接客している後ろ姿を見たりした。

 39歳の彼は、私が断ったあと、自分はLARKを吸うのにも関わらず私が大切な人に教えてもらって贔屓にしているMarlboroを買ってくれ、「君はもっと綺麗になるよ」と言ってくれた。優しい団塊ジュニアである。そして私が車を降りる時、二人の間の備え付けの時計のデジタル表示を見て、「見て、4:44だよ。俺たちの未来ねえな」と気だるげに笑った。困った時、連絡してと声をかけながらも。

 

 一週間でミュシャ展とルノアール展にいった。最終日と最終日前日、駆け込みのように、大勢の人と一緒に並んで。ミーハーなカップルのするようなことで、人ごみがすごくて、どちらもいい展覧会だった。特にルノアールの良さをサブカル好きのニヒルじみる連れが分かってくれたのは大きい。私はあまりにも終始、ルノアールの面白さとかっこよさを嬉々として語りすぎていたかもしれないが(そしてそれは少し「男として」という恣意を含んでしまったかも知れないが。)。ルノアールの女性の絵には作家の下劣な欲望を感じず、女である私達は、ただこのような形で美しく女性を描いてくれたことを喜ぶのである。感謝しながら。ルノアールはすごく賢い人で、きっと個人的に既に生きることしかできないことを悟ってからは、楽しむしかないとでもいうように質のいい遊びを重ね愛しながら世の中と人生を渡り歩いた。少しマッチョかもしれない、そして確実に私のヒーローのひとりである。今だったらおそらく遊び上手な広告業界のクリエイティブイケメンとしてでもモテていることだろう。

 連れが喜んでいたベーコン展は、今度私は一人か別の女友達と行く。

 

 土曜日に丸の内を楽しんだせいかは知らないが、この投稿は丸の内サディスティックを聞きながら書き始めた。私はあれだけ椎名林檎に対して斜に構えた部分があるのに、「夕方や夜や黎明に丸の内サディスティックを書きながら随筆でも書きたい」という気分をそれなりに長いこと採用しているのである。もう日は殆ど出ているが。

 

 いつかこの間、大切な人と一緒にいる時、私は泣いていた。その人がすごく大切であることに気づきながら、これからもずっと一緒に生きていたかったのに、私の中に明日が見えなかったのである。私は何故だか、その日が生きているうちの最後であるような気がした。明日以降が、ぽっかりと消えているように思えたのである。

 このブログをはじめたのがもはや18日前だから、その出来事はそれよりさらに前になるだろう。私は相変わらず何やら書いている。

 あんな言い方をしておきながら、ずるくも結局、私はこれを、創作として銘打つことしかできない。(←今日はもう楽しくて明るい気分になって立ち上がりたくなったので、次回に至る書き残し。)

 文字を書くのが面倒くさくなって、立ち上がってお茶を飲んだり、何か別のものを読んだり、音楽を聞きたくなったり、新しく何かを見ようとすること、それだけでブログを書く意味はあるのである。私はおそらく、もうしばらく生きているだろうから。煙草は多分もうあんまり吸わないけど。大切な人を、大切にしたいから。

 血を吐いたあと、そのまま洗面所から出てきたが、今でもあの白い流しの上に赤い血の塊は残っているのだろうか。今日はもう、学校に行くまで少し寝ねばなるまいから、起きてから見よう。今日はこのあと、大切な人が助けてくれるだろう。

 

 

※この記事は、事実を元にしたフィクション、或いは小説に違いない。

 

 

 

 

はてなブログと読書ブログ

 

先日課題で久しぶりに長文を書いていて、結構気持ちよかった。

高校の頃mixiに長文書きなぐってて、少しは精神的に平衡とれてたことを思い出した。ツイッターで小出しにする訳でもなく、日々の中で思いっきり書いてみること。

書くことに飽きたりるぐらい、毎日書き続けていないと駄目なんだな、と思った。

ある程度、人に見える形で。それなりに、世界に伝える気持ちで書いていかないと、文章うまくならないし、整理もできない。

 

っていうか就職までの個人的な整理にもなればいいのですが。社会と自分の間で。

これをポートフォリオに出すわけにはいかないし、単に試験的な意味で、社会にこの文章を伝える人間として認識されることを前提とした上で、私は何を覚悟の上に書くことができるのか、そして伝えることができるのか。

そしてある程度、添削し続けること。

 

それにしても、ツイッターのデフォルトの背景の色には、どういう心理効果が隠されているんだろう。きっと今より、奥へ奥へ吐露したくなっていたはずだ。

単なる私の欲望に、すぎないのか。

 

まあ一番の動機は読書ブログはじめようと思ったことですけど。